コロナ禍で日本中が暗く、重くなっている時、一番元気を与えてくれる人が亡くなった。
山本寛斎さんである。
寛斎さんとは、10年以上お付き合いをさせて頂いた。毎年、お会いして食事などもご一緒させて頂いた。ある年は12月の14日にお会いした時は、「これから一緒に行きたい所があるんです。」と泉岳寺に行き、赤穂浪士の討ち入りを再現したパレードを見たこともあった。
とても寒い日で、お寺の参道の屋台でおでんを肴に日本酒を楽しんだ。とても懐かしい。
年下の私が言うのもなんだが、お会いしたその瞬間から馬が合った。
本当に寛斎さんは熱い。熱苦しいほど熱い。私も周りからよく言われる。(苦笑)
その熱さが、私にはとても心地よく、お会いするたびに体内のマグマに熱を加えて頂いているような気がした。
寛斎さんのチャレンジ意欲は、70歳を越えられてからも、まさに20代と同様もしくは、年々増すようで、昨年は北極にも挑戦された。75歳である。その話を子供のように生き生きと語られた姿を思いだす。
寛斎さんは、何者だったのだろう?
寛斎さんは、常に「自分を探す旅を続けてきた!」とおっしゃられていたが、実際、寛斎さんが作る服のように、進化とトランスフォーメーションを絶えず繰り返し、いつも意外な面をみせてくれた。
誰も考えないようなトッピな事を考える一面、世の中にこんなに真面目な人がいるのかというくらい誠実な方であった。
ショーの資金を集めるために、一人一人に自筆でお手紙を書いたこともお聞きした。(すでにスーパースターになっていた後にである。)
寛斎さんは勉強家であった。
毎朝何十分も時間をかけて新聞を隅から隅まで読むという事もお聞きした。
世の中の出来事や流れをつねに消化し、それらについて、如何なるテレビの有識者にも負けないくらいの核心をついたご意見をお持ちだった。
また、とんでもなく読書家で、歴史物が大好きで、
ある時、「治山さん、これ面白いよ」と一冊の本を手渡された。
それは、日露戦争における日本海海戦にて東郷平八郎と秋山真之がどう戦局を考え、なぜ勝てたのか?というたぐいの学術書的な本だった。
興味深いけれど、内容が非常に濃くて、改めて寛斎さんは勉強家だと感心したことを思いだす。
寛斎さんは、人間大好きであった。
歴史が大好きだったのも、実は歴史以上に人間に興味があり、人間が大好きだったと思う。太平洋のパプアニューギニアでのファッションショーの様子をお聞きした際も感動した。何週間も現地で生活し、言葉も文化違う人々を巻き込んで、そこでしかデザインできない服を作り、彼らでしか出来ないファッションショーを成功させた。
さらに心に刺さったのは、現地の人たちが、寛斎さんに惹かれレスペクトを繰り返し言った以上に、寛斎さんから彼らに対するリスペクトの言葉があふれたことである。真の国際人とは、肩書や生活レベル、文化、習慣などに囚われず、いい物は良いと素直に認めることであると学んだ。
服もそうだが、それを着る人間が大好きだから、どんな人からも受け入れられたのだろうと思う。
コメントする