マクドナルド頑張れ!
TOKIOの城島リーダーが、101キロ走り終えて、武道館でゴールのテープを切ったところ、
岡山駅前で35年間走り続けていたマクドナルド岡山店が静かにバトンを置いた。
出張から帰りぎわ丁度その店の前を通った時、従業員の
「35年間有難うございました。本日9時をもって閉店します!」という涙声が聞こえた。
マクドナルドには特別な思い出がある。
最初の接点は、藤田 田さん(日本マクドナルド創業者)であった。
中学校の頃、家の本棚で偶然見つけた「ユダヤの商法」藤田 田(でんと読んでくださいと書いてあった)
その本の中で、藤田さんは東大の法学部を出て、商社を作り、そして日本マクドナルドを日本に紹介
していた。
当時マクドナルドは、地元の玉野市にはなく、本に書いてあるマクドナルドのハンバーガーが物凄い
ご馳走に思え、「どえれー食べてみてぇ。」と岡山弁丸出しで少年は思った。
残念なことにマクドナルドは、玉野市のみならず、岡山県になかった。その代わりにドムドムはあった。
(苦笑) ドムドムを食べながら、遠くマクドナルドにあこがれる我々であった。
丁度ご当地アイドルユニットを見て、遠くAKB劇場を夢見る少年少女たちのように、まだまだ生マクド
ナルドは遠かった。
*著者注:ドムドムとは当時ダイエーがやっていたハンバーガーショップのこと。
さて、時が少し流れ、僕がマクドナルドを最初に食べたのは、高松であった。
高松にマクドナルドが出来たという噂を聞いて、友達らと連れ立ってフェリーに乗って食べに行った。
初めて食べるマクドナルドのハンバーガーは、すごくうまく感じた!
ドムドムとあまり変わらなかったと思うが、マックシェーキ、フライドポテトもすごく美味しかった。
たぶん気のせいだろう(笑)
マック(大阪はマクドだが、岡山はなぜかマックと呼ぶ)との特殊なドラマはまだまだ続く。
今回は、かなり個人的なうだうだ話ばかりなので、興味のない人は、ここら辺りでやめて下さい。(苦笑)
さて、高校では寮生活となった。実は非常に厳しい学校で、外食は一切禁止。もちろんマクドナルド
も、校則を破れば、停学という厳しさであった。
しかし、我々寮生は休日には寮を出て、停学をかけてマクドナルドに行った。
そこまでの価値があるとは思えないが・・・。ここでも、禁断という限定感がハンバーガーを特別な
ものにした。(苦笑-今回は自動的苦笑が続く)
その後、大学時代になるとようやく自由にマックに行けるようになった。
但し買うのは常に当時一番安かったシェーキとハンバーガー。これで長時間だべった。
苦学生にはビックマックは高嶺の花だった。今の小学生にも負けているかもしれない(苦笑)
その後商社に就職して、アメリカで数年働くこととなる。
アメリカでのマックの思い出は、2つ。一つ目は、マクドナルドでは通じなかった事。
通じる為には、マクッ、ダァナルドと「ダァ」をドナ(ルド)らないとならない。と親父ギャグを一つ。
(しかしこれはマジな話なので勇気ある方は是非)
もう一つ、ある日マクダァナルドに行ったとき、190cm位の黒人がチーズバーガーを2口で喰らうの
には驚いた。どうやって喰らうのかと言えばまず右手にチーズバーガーを持って、それをギュッと
結んだ口に力任せに押し付ける。丁度ハンバーガーと無理やりキスをするように。
それから口をガバッと開けて、押し付けたバーガーをパクッと喰らう。
この一口で半分は無くなる。同時にそれをもう一度。これには驚いた!
日本に帰ってきてからも、時折無性にハンバーガーが食べたくなる時がある。なぜかごちゃごちゃ
したバーガーよりもシンプルなバーガーが一番好きだ。
(学生時代のトラウマがあるのかもしれない苦笑)
また、幹部と店を回る時も、急いでいるときはマックを買って車内で食べる。
さて、話は戻るが、先ほどの岡山の老舗店舗が一つなくなった。
翌日改修工事を始めた店を見たらなぜか涙がこぼれた(これはうそ!大げさでした。)
今マックが苦戦していると聞く、鶏問題以来、2桁%も毎月前年を落としていると聞く。もう藤田さんも
原田さんもいない。新社長は就任早々大問題だが、なんとか頑張ってほしい。
藤田田さんが50年くらい前に本で予言したとおり、日本人の食生活は本当に変わった。
体系も変わった。
それへの貢献度は大きい。まさに文化を作ってきた。その文化を継承、発展させてほしい。
一ファンとして!I'm lovin'it!