再度、経費削減運動を徹底し、広く再建案を社内に募った。その結果、一つの新規事業案が目を
引いた。その案とは、本来の藩の強みを活かした政策。つまり絹糸の生産を倍増させるもの。
これは着物を含め市場は大量にある。
決断した鷹山は、各家に桑の木を大量に植えてもらい蚕を飼い、絹糸の生産を大幅に増やそうとする。
しかしこの新規事業の欠点は、軌道に乗るまで時間がかかること。その間も社員を食わせていかないと
いけない。社員には自らの身は自らで守るという考えを説いて回った。
まさかの時の為に最低食べられるだけの貯蓄を奨励。(実際は、飢饉による餓死をなくすように、
食用の草を各家庭に植えさせた。)
数年たち徐々に絹糸の生産は増えていった。しかし思ったほど利益は増えない。
なぜなら、中間業者の卸や小売りに値段をたたかれ、安くしか売れなかったことが原因であった。
どうすれば、利益を増やすことが出来るのか?考えに考えた末、鷹山が出した答えが、付加価値を
持った加工品を作り売る。
買いたたかれないオリジナルのものを作ればいいのではないか?という事だった。
つまり原料の絹糸を織って生地(二次製品)にして売り出すという案。
ただし、これにも一つクリアーしなければならない問題があった。
それは、誰が織るか?今全社員は、それぞれの持ち場の仕事で手一杯。
誰かいないか?あたりを見回した時、鷹山は、大きな人材の山を見つけた。
それはスタッフの奥さん方である。専業主婦である彼女らを労働力に変えられないか?
鷹山は、まずは自分の側室からその内職を始めさせ、その製品を藩が買い取ることで、一気に広げて
いった。
少しずつ新規事業が利益を生み出していく中、いままで全て鷹山を苦しめた天が最後の最後で
助けてくれた。
大ヒット商品が生まれたのだ。ユニクロのヒートテック並みの大ヒットが生まれた。
それが米沢織の透かし織だった。これは高い技術によってでしか作り出せず、米沢藩の独占となった。
この大ヒットにより年間10億円以上の利益を計上。借金も少しずつ返していった。
鷹山は、事業が軌道に乗るや否や、いままでやりたかった福祉を充実。人口増の政策(他藩との結婚を
許可、結婚して米沢藩に住ませた。)また、子供手当制度を設け、さらに介護休暇も許可した。
学校等の教育政策も広げていった。
鷹山は、これらの改革を70才でなくなるまで進めていった。
鷹山公の死去の翌年、一時はは300億以上に膨れ上がった借金を管財し、わずかばかりの剰余金も
作った。鷹山の生涯かけての改革は、ようやく日の目を見た。
生涯56年かけての改革、不可能と言われていた会社の再生を行う傍ら、自らは生涯、質素な食事と
綿の着物で通したという。
僕が鷹山を敬愛してやまないのは、単に財政立て直しをしたのではなく、挫けてもくじけても常に前に
進む不屈の精神、実行継続力、そして何より常に民の事を考えて行動し、制度を設けた事である。
何のために改革を行ったのか、それは決して自分のためではなく、民をいかに幸せにするかという1点に
尽きると思う。
「受け継ぎて、国の司の身となれば、忘るるまじきは民の父母」
生涯を振り返ると、この言葉の持つ
意味が、すごく深く感じる。
もう何度目になるかわからないが、鷹山の評伝を紐解いて、謙虚な心を持ち、スタッフの事を本気で
思いながら経営にあたろうと強く思った。
/治山
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